ゆりかの戯言。

ミーハー。客観的にみるとイヤなやつ。

謝れば許される世界じゃないから

私も普段は興味無いジャンルの情報に疎いし、言われたことは鵜呑みする方だと思う。現代の社会はわからないし、歴史に詳しいわけでもない。そのくせ頑固というか、自分が持っている意見を覆すにはある程度の証明を必要とする。

あと、自分が事実として知っている(と思っている)ことが歪められて伝えられているのをみるのは辛いし腹が立つ。そしてそのある程度までの嘘を信じる人がいると悲しくなる。

普段だったら「自分にはどうでも良いし騒ぎたい人が騒げば良い」ぐらいに思っているアイドルにまつわる騒動が、今回は国家レベルにまでなり注目を浴びている。

私のスタンスを説明すると、担降りという概念をしらない。あの事件やこの記事を境に嫌いになった、みたいなことがないのである。他に興味が移ってフェードアウトしていくことはあっても、この日からアレは嫌いでアッチが好き、がどうしてもわからない。ジャスティンビーバーがちょっとどうかと思われるようなことをしても、彼の音楽自体は好きだし変わらないので聴いていた、みたいな。アイドルやアーティストがプライベートで良い人だったらそりゃ嬉しいけど、別に舞台上で舞台上の顔をキープしてくれる限り特になんとも思わないのである。よっぽどのことがあったのに表の顔をキープできる人は精神がやべぇなとは思うけど。
ましてや他人の政治的な思想なんてどうでもよすぎる。著名人がSNSで「選挙に行ってね」みたいな発信をするのは良い傾向だと考えているけど、その人がどの思想や人や党に票を投じたかなんていうのは無関係すぎる。ファンやフォロワーに自分の思想を押し付けたい人のところにはそういう人たちが集まっていくんだろうし、基本的に政治や世のあり方は芸術という名の活動分野とは切り離して考えるべきだと思う。

著名人は全人類の手本であれ、みたいなのも古い気がする。別に著名人だから良い行いをするのではなくてヒトとして全人類に良い行いをしていただきたい。

だから、日本のテレビ番組が某韓国アイドルグループの出演を拒否したことに賛成できない。しかもはたから見ていると若者のアイコンである(べきな)メンバーが故意なく歴史的に繊細なテーマを持ち出してしまったことが問題なのではなくて、それでいきりたってしまった過激な団体が怖いから、という印象を受けた。紅白に関しての報道でも「落選」という言葉が使われていたことに違和感を覚える。別に紅白に出られなくても彼らは困らないレベルでグローバルに人気がある。それはいろいろな日本のアーティストたちと違うところで、日本において紅白に出ることがどんなに光栄でどんなに輝かしいのかなんて海外の人々にはマジでどうでもいいのである。っていうか相手の国そのものがダメなら某女子グループは出ていないはずなので、やはり「反日的な表現があったこと」に焦点を当てる場合、まずその服やブランドの解釈から考え直すべき。

自分の国とその文化が他の国に侵された場合、相手がいなくなったら嬉しいだろう。それは理解できる。そしてそのいなくなるきっかけとして相手の大半がその前にもその後にも例がないダメージを負った。その二つの事実を結びつけることが罪だとはどうしても思えない。

仮に彼が反日的な思想を持っていたとする。それが理由に日本で活動できないのはおかしいと思う。私はヒトラーの出身国に住んでいるのだけど、ナチに賛成する挙動や思想は法律的に禁止されている。それも本当の意味では表現の自由ではないのではないかと思う、というと母に諭されるぐらいには私は過激な意見の持ち主らしい。反日だから日本にくるな、と言っている人たちだって相手に敵意剥き出しじゃないか。嫌いな人に向かって「近寄るな、絶対来るなよ、話しかけるなよ」とわざわざ迫っているようなものだ。相手にどんなに嫌いかなぜ嫌いなのか説明している暇があったら自分が好きなことに時間を使えばいい。愛の反対は無関心なのだから。自分が嫌いなら勝手に嫌いでいればいいし、その意見を人に無理やり押し付けようとするのは色々な感情や思想と関係なくアホらしい。

植民地主義や戦争なんて被害者と加害者は紙一重で、あっちのほうがデータ上ではいっぱい人を殺したとかこっちでは何代にも続く問題ができたとか、ネガティブなことを言い合えばきりがない。心にも体にも傷を負った人たちには負わせた側のおかげ(せい)で識字率があがったことやアスベストが禁止されたことなんてきっとどうでもいいだろうし、どちらかのほうが正しいみたいな比較論は全てにおいてどうかと思う。いじめと同じで、虐げられている側が虐げられていると感じた瞬間からその関係性はバランスがとれていない。

戦争はあってはならない。その根本にある(と私が思う)《押し付けがましさ》も醜い。

そして、過去にとらわれることに意味はない。時間さえ解決できない、と言われるけど、それならますます別の攻略法が必要。

国家単位で謝れとか弁償しろとか言ってみても、本当にそうされたら満足するのかな?本当に申し訳ないなら土下座しろよ、と言って本当に土下座をされたら一件落着するのかな?同情するなら金をくれ、と言って本当にお金をもらったら嬉しいのかな?

どんな遺恨も完全にチャラにはならないだろうし(もしなる人がいたら心からびっくりするけど一生そんな人にはなれない)、それならお互いに向き合うことはできなくてもどちらも前を向くべきじゃない?
「前にこんな悪いことをした」「あの時傷ついた」「あんなことを言うなんて」を重ねていってもどこにも辿り着けなくない?喧嘩両成敗じゃない?例えてしまえば、決定的なすれ違いがあった仕事先の人とは今後も付き合いが続くのだから上辺だけでもまわしていくしかなくない?

前に書いた論文で芸術と政治の関わり方について触れたのだけど、どの時代も芸術は(音楽は特に)、政治色が強い。国家のことを気にして意見を変えるテレビ局やジャーナリズムがあること自体はきっともうしょうがない。だけど最終的に自分の考えを決めるのは自分でいたい。だんだん何が言いたいのかわからなくなってきた。