ゆりかの戯言。

ミーハー。客観的にみるとイヤなやつ。

できないものはできないんです…たぶん

作文が苦手すぎて、克服しようと自分用に立ち上げたこのブログも結局全然続いてない…というか日記とか手帳も難しいのにブログできるわけあるかよみたいなアレはある。本が読むのが大好きなので自分で物語をしたためてみたことも数え切れないほどあるし、血迷ったのかなんだか知らないけど詩とか作曲込みの歌詞も頑張ってみたことあるんだけど、それぞれしばらく落ち込むぐらいには出来が悪かった。ほぼ全部捨ててる。

そもそも何かを創り出す、生み出すという行為が控えめに言ってうまくない。

学校で一学期だけやったヒップホップダンスも、自分がヴァイオリンで演奏するカデンツァ(自分のテクニックの見せ場を本当は即興でその曲のテーマにのせてつくるとこ)も、自分で創作や作曲となると思考が停止する…のでそこはなるべく避けて通ってきました。他の誰かの振り付け、他の誰かの曲を追うので十分満足する、ちょっとしたアレンジならどうにかなるし

有川浩さんのストーリーセラーに出てくる『世の中には、物語を「愛する人」と、物語に「愛された人」がいる。すなわち、読む側と、書く側。残念ながら、どちら側の人間かを自分で決めることはできない』がまさにどんぴしゃです。

できる人が羨ましいし尊敬する、とはいろんなジャンルの芸術に関わらせてもらう分にはよく思うけど、無理してできるようになるようなもんでもない…でしょ…?

 

 

決して『想像力がない』わけではない。周りにはそこまで考えなくても気が使える気でいるし(要するに外面はよろしい、空気は読める)、ホラー系やスリラー系だけは本でも映画でも手が出せない(普段の家とかの景色に怖い画を重ねてしまうやつ、視覚的な想像力?)。ただ、自分で考えていくうちにたどり着いたのが、

 

それもある種のアレンジなのではないか、ということ。

 

ここからは完全に個人的な考えになります。

周りの人に気が使えるというのは「自分がそのシチュエーションだったら何が必要か」という発想の転換だからできる。例えば食事の場にいたら「飲み物がなくなったらおかわりが欲しくなるだろう」「手を使って食べる料理があれば手を拭けるもの又は洗いにいくきっかけがいるだろう」というところを無意識のうちに思っていて、一緒にいる人たちに反映している、みたいな。コップが空になっている人がいればおかわりしたいかどうか、何か飲みたいものがあるか訊いてみたり、手が汚れている人がいれば綺麗なナプキンやおしぼりを渡してみたり。結果として『気が利く』という周囲の評価につながる。自分で意識的にコントロールできるタイプのアレンジ。

怖い話だって、登場人物に感情移入するから怖いわけであって、完全に客観的に物語を楽しめる人なんて私は会ったことがない。もともと気持ちの切り替えは下手くそだし涙もろいけど、そんな中もし自分が一人でいる時に人形が話しかけてきたら怖いし、大事な人は失いたくないし、まぁそんなとこ。ほら、私、ガラスのハートだから?(自分で言う)これは自分ではコントロールしにくい範囲のアレンジ。

どちらのケースにしてもすでに自分が感じたことがあることや自分がその場にいたらどうなるかどうしたいかという思考回路に基づいているので、自分が生み出したことにはならない。飲み物がないと喉が乾く、なんて今に始まったことじゃないしね。

 

ところが、各ジャンルの芸術家に創作をする人が存在する。

何もないところから始めて、形にしていくのを生業としている人々、俗にいう『天才』。

ファンタジーやSFの世界が一番わかりやすい気がする。物語とかいてサーガと読ませるような壮大でフィクションな世界を他の人たちにわかるように表現するのがどういうことなのか私には理解できないし、できる日はたぶん来ない。スターウォーズでも守り人シリーズでも、私たちのいる日本や地球には(この次元には)存在しない場所、人、彼らの文化と歴史がある。それらが紡がれていく様は本当にアートだし、やっぱり誰にでもできるわけじゃない(少なくとも私はできない)。

創る側の人たちには本当にその世界が存在するのかもしれない、私にはみえていないだけかもしれない。だけどそんな私も行ってみたいような世界を行ってみたくなるような伝え方で伝えようと思ってくださった心意気と技に感謝しきれない。だって私は自分一人の力ではそんなところに行けないから。活字や絵や映像を通してその世界を垣間みえることが、みせてもらえることが、嬉しくてたまらない。

 

カフカは生前誰にも自分が書いたものをみせたことがなかったらしい。彼の死後、親友に勝手に出版されてしまった。むしろ親友の人に言いたい、世界の文学に貢献してくれてありがとう。

モーツァルトの直筆の楽譜にはほとんど修正の跡がないそうだ。音楽が常に頭の中で流れていて、洪水のようにあふれでるものを書き留めているだけだから、とどこかで読んだ気がする。でもそれを自分で弾いて発散するだけではなくて、書き留めて、他の人にもシェアできる勇気(?)があるのってそれはそれで別の才能なんじゃないかと思う。カフカと違って自信がちょっとありすぎた類の変態な人だったらしいけど。

良いんだか悪いんだかわからない例がパガニーニ。悪魔と契約をしたのではないかと疑われるほど素晴らしいヴァイオリン奏者であった彼は、一人でいる時にしか練習しなかったし、自分の演奏会の客のなかに音楽家がいないように気を配りすぎるほど気を配っていたらしい。自分の技術や音楽が真似されないことに必死になった結果として身分の高い奥様達にモテすぎて彼女らの旦那さんたちに訴えられたのちしばらく牢屋行き、というエピソードがあるぐらい。だって彼のように弾ける人は彼しかいなかったんだもんねぇ。かっこいいよねぇ。それは旦那さんを放ってでも…あっ…

音楽史的にいうとこういう人たちは早死にするんですけどね(モーツァルトは35歳で亡くなった)…周りにいる音楽家でも才能が抜きん出てる人ってちょっとそれ以外の人間的な何かが欠落してたりするんだよね…

 

少し脱線してしまったけど、まとめると

創作家の人ってすげぇな

 

努力すればなににでもなれるっていうよね、

私だって楽典をもっと勉強すれば簡単な作曲ができるようになるだろう。

でも閃きがないから、新しい道を切り開くことにはつながりにくいんだろうな。

新しいことを学べば閃きにつながる可能性は高くなるかもしれないけど、

面倒臭いのでやる気がある人たちに一任したいと思います。

私の知る限りそういう人ってそれやってないと生きて行けないから。

私が努力で追いつけない高みにいるから。

 

偉い人エジソン曰く『天才は99%の努力と1%のひらめき』。

  

未だに進路が決まらない上に悪い意味で小器用な自分をねぎらってあげたい。

自分が決めたことに向かって努力するということの意味を知りたい。

 

小生意気で開き直っているゆりかでした。